大原神社と産屋

大原神社周辺と町垣内、産屋の利用について

大原神社周辺と町垣内、産屋の利用について

大原神社と町垣内

大原の地は京都府福知山市三和町でも比較的山間にあり、緑豊かなところです。
大原神社の境内から見下ろすと町垣内(まちがいち:小さな集落)があり、その町垣内にそって小さな川が流れ、向かいに小さな産屋があります。

産屋の位置

産屋の位置※破線内が産屋の利用があったとされる町垣内

この環境は、今と昔、それほど根本的には変わっていません。
大原神社を訪れ、川沿いを歩きながら産屋に向かうと、まるで日本の昔を歩いている気分になれます。
今は昔と違って、川に沿って桜の木が植えられています。
昔の写真を眺めてみるとわかるのですが、その当時を十分に想像出来る風景が ここには残っています。

昭和23年頃の町垣内を写した写真を元にと現在の風景と照らし合わせてイラストに起こしたもの

昭和23年頃の町垣内を写した写真を元にイラスト化

大原の産屋について

大原の産屋は、大原神社から町垣内を見下ろし、川向かいのまちはずれにあります。
産屋とは産婦が家と離れて出産をする建物のことで、大原では大正2年ころまで利用され、その後は自宅で出産するようになりました。自宅での産後も産屋に泊まり、身体を休める風習は昭和23年頃まで続いたそうです。
大原の産屋については、大原神社の聖域を穢さない為に設けられたと言われています。これは出産は穢れたものだとする血盆経の影響によるものだとされます。しかし実際の当時の感覚としては、聞き取り調査の結果、産後にゆっくりくつろぐ為の場所であったようで、産屋の入り口が大原神社の方を向いていることから、産屋に籠もる妊婦が大原さんの見守るなかで無事出産できるようにという願いも込められていました。
血盆経とは:お産では多量の血が流れるため、地の神を汚し、また水を汚すので、女性はその罪によって死後「血の池地獄」に落ちると説かれた現代の感覚からはとんでもないいわゆる偽経。日本では室町時代後期から民間に広まりそれ以降の女性観や出産観に影響を与えたと言われている。

産屋

造りは切妻屋根をそのまま被せたような形の天地根元造(てんちこんげんづくり)と呼ばれる古い様式です。
大正末期までの屋根は藁をかぶせただけのような粗雑な屋根で、下の写真のように入り口は左ではなく右になっていたようでした。粗雑なのはそれもそのはずで、聞き取りの確かなところでは明治末まではお産のたびに産屋は建て替えられたということです。

天地根元造(てんちこんげんづくり)の産屋

天地根元造(てんちこんげんづくり)の産屋

大原では出産の折、12把のわら(閏年は13把)を持って入りそれを敷いて、その上に筵(むしろ)又は菰(こも)を敷いて、布団を敷きました。布団などがある以前は筵までだったと思います。
出産は取り上げ婆さんが介助して座産で、天井から下がる力綱を使用して出産しました。産屋の入り口には魔除けの意味の古鎌がつるしてあります。
(※把は稲の計量単位、10把で1束。※筵は藁やい草などの草で編んだ簡素な敷物、菰も同じ。)
下の写真、産屋の内部、中央の盛られた砂が「子安砂」。
産後の後産(あとざん)は奥の 石積み(埋め場)に埋めました。不思議なことに次の利用者が使うときには後産は綺麗になくなっていました。これは大原神社の使いのオオカミ(狼)が処理したのだと伝えられています。大原神社の使いの狼はお守りやお札にその姿を見ることが出来ます。
産後は7日7晩この産屋に泊まりました。その間の食事は自宅で調理されて、夫や母親によって運ばれました。産後のことなので、お粥さん程度のものだったようです。入り口は筵か菰で覆われました。戦後には親や夫も一緒になって泊まったという例もあったようです。

産屋の内部、中央の盛られた砂が「子安砂」。奥の石積みが埋め場

産屋の内部、中央の盛られた砂が「子安砂」。奥の石積みが埋め場

産屋が作られている場所は、災害時にも安全とされているところにありむかし大水がきて田畑が流されたときでも、産屋があるところだけは水がつきませんでした。水がひいたあと流れついた流木で建てられたのが、大原の産屋の始まりといわれています。それは昭和28年の大水害の時にもびくともしていないことから証明されています。大原の産屋の利用は大原区の中でも神社に近い町垣内のみで、川向かいのどの家からも見え、大原神社からもよく見える位置にあります。

大原神社の境内から神社が見える位置にあり、産屋からも神社が見える。

大原神社の境内から神社が見える位置にあり、産屋からも神社が見える。